市報松江 2016.11

コラム神国の首都Vol.84

 今をさかのぼること約100年、大正中期ごろのことです。宍道町に「出雲追分」がめっぽううまく、初代出雲愛之助から出雲小愛之助の名を授かった少年がいました。形部為吉。一方、大坂相撲に相撲甚句を得意とする、八束村(今の松江市八束町)出身の力士がいました。十両のアベノモリ。関西節の相撲甚句で地方巡業のお客をうっとりさせたといいます。

唄上手の巡り会い

 この2人が出雲巡業の場で巡り会います。当時の宍道町は、大正4(1915)年に始まった氷川神社での奉納相撲を機に空前の相撲ブームだったといいます。相撲を取る血気盛んな青年団の面々が少年の背中をたたきます。「お前、アベノモリに相撲甚句を教えてもらえ」「しっかり覚えるんだぞ」。少年は出雲巡業のたびに頼んで一行に同行、アベノモリから相撲甚句を習い受けます。少年時代から青年へ、そして復員して父となってからも、毎年秋の奉納相撲で力士直伝の相撲甚句を朗々と唄い上げました。独特の節回しは父から子に引き継がれて現在へ。大坂相撲が廃れてもなお、関西節の相撲甚句が宍道の地にポツンと残る所以です。

大坂相撲の栄枯盛衰

 先の大相撲秋場所は横綱白鵬不在の中、2横綱3大関を破った隠岐の海が前半を面白くし、終盤まで遠藤が優勝争いを演じた中、かど番だった大関豪栄道が15戦全勝で初優勝を果たすなど大いに盛り上がりました。
 今でこそ日本相撲協会が大相撲を束ねていますが、かつては江戸、大坂、京都、名古屋、広島相撲などがあり、18世紀後半の江戸時代には大坂相撲は江戸相撲をしのぐ隆盛を誇ったとされます。その後、谷風や雷電の活躍、参勤交代による江戸詰めの諸大名が抱え力士を江戸相撲に出場させるようになり形勢は逆転。遂に大坂場所は大正15(1926)年1月、台北での本場所で幕を閉じます。
 相撲甚句には関東節と関西節があり、今の福祉相撲や地方巡業で披露されるのはすべて関東節。大坂場所の終焉とともに関西節も衰退の道をたどることになります。

揺らぐ伝統の灯

 恐らく、この世でただ一人関西節を引き継いでいるのが、宍道角道協会(小豆沢栄治会長)に所属する形部明孝さん、67歳。為吉の長男で、「父は毎晩のように私の枕もとで相撲甚句を唄っていて、自然に覚えた」。相撲甚句が子守唄でした。昨年秋、101回を数える奉納相撲で相撲甚句を披露した明孝さんですが、今年はかないませんでした。同協会員の高齢化に加え氷川神社稲荷社の遷宮に伴う工事で土俵を失い、奉納相撲の歴史に幕を引いたからです。「奉納相撲はなくなっても、甚句や土俵入りなどは守り続ける」と小豆沢会長。「派手な関東節と比べて関西節は地味。しかし何とも言えない味わいがある。何とか次に引き継ぎたいのだが…」と明孝さん。熱い思いを抱きながらも、伝統の灯はここでも揺らいでいます
(瑛)

シリーズ景観52 「みんなで残したい松江の景観400選集」は、市ホームページでご覧いただけます。
【問い合わせ】まちづくり文化財課(電話55-5387)
「まつえの景観400選」で検索「不昧公ゆかりの茶室、普門院観月庵です。修復され見違えるようになりました」とご紹介いただきました。
観月庵は、1801(享和元)年に建立された三斎流の茶室で、大名茶人第7代松江藩主松平治郷も嵩山に昇る月を丸窓からご覧になり、お茶を楽しんだといわれています。
建立から200年を経過し、老朽化などで倒壊の危機にあったところ、2010(平成22)年に修復されました。
普門院から宇賀橋にかけては「伝統美観保存区域(普門院外濠地区)」として、松江城、堀川に向けて開けた歴史的まちなみを保存し、ゆとりと潤いある景観を保全することとしています。
落ち着いたたたずまいと四季折々の景色を楽しむことができる庭園を眺めながら、心休まるひとときを過ごされてはいかがでしょうか。『みんなで残したい松江の景観400選集』から景観審議会が特にお薦めする景観
普門院観月庵ナンバー188
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